姦通したダビデ王、悔い改める

 

 

 

サムエル記上16章11612節:ビデ、油を注がれる

16:1 主はサムエルに仰せられた。「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たして行け。あなたをベツレヘム人エッサイのところへ遣わす。わたしは彼の息子たちの中に、わたしのために、王を見つけたから。」[…] 16:6 [長老たちとサムエルらがベツレヘムに来たとき]、サムエルはエリアブを見て、「確かに、主の前で油をそそがれる者だ。」と思った。16:7 しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」16:8 エッサイはアビナダブを呼んで、サムエルの前にすすませた。サムエルは、「この者もまた、主は選んでおられない。」と言った。

 

16:9 エッサイはシャマを進ませたが、サムエルは、「この者もまた、主は選んではおられない。」と言った。16:10 こうしてエッサイは七人の息子をサムエルの前に進ませたが、サムエルはエッサイに言った。「主はこの者たちを選んではおられない。」

 

16:11 サムエルはエッサイに言った。「子どもたちはこれで全部ですか。」エッサイは答えた。「まだ末の子が残っています。あれは今、羊の番をしています。」サムエルはエッサイに言った。「人をやって、その子を連れて来なさい。その子がここに来るまで、私たちは座に着かないから。」

 

16:12 エッサイは人をやって、彼を連れて来させた。その子は血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。主は仰せられた。「さあ、この者に油を注げ。この者がそれだ。」16:13 サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真中で彼に油をそそいだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。

 

 

 

サムエル記下11章2~17節:ウリヤの妻バト・シェバ

11:2 ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。11:3 ダビデは人をやって、その女について調べたところ、「あれはヘテ人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバではありませんか。」との報告を受けた。11:4 ダビデは使いの者をやって、その女を召し入れた。女が彼のところに来たので、彼はその女と寝た。・・その女は月のものの汚れをきよめていた。・・それから女は自分の家へ帰った。11:5 女はみごもったので、ダビデに人をやって、告げて言った。「私はみごもりました。」

 

11:6 ダビデはヨアブのところに人をやって、「ヘテ人ウリヤを私のところに送れ。」と言わせた。それでヨアブはウリヤをダビデのところに送った。11:7 ウリヤが彼のところにはいって来ると、ダビデは、ヨアブは無事でいるか、兵士たちも変わりないか、戦いもうまくいっているか、と尋ねた。11:8 それからダビデはウリヤに言った。「家に帰って、あなたの足を洗いなさい。」ウリヤが王宮から出て行くと、王からの贈り物が彼のあとに続いた。11:9 しかしウリヤは、王宮の門のあたりで、自分の主君の家来たちみなといっしょに眠り、自分の家には帰らなかった。

 

 

 11:10 ダビデは、ウリヤが自分の家には帰らなかった、という知らせを聞いて、ウリヤに言った。「あなたは遠征して来たのではないか。なぜ、自分の家に帰らなかったのか。」11:11 ウリヤはダビデに言った。「神の箱も、イスラエルも、ユダも仮庵に住み、私の主人ヨアブも、私の主人の家来たちも戦場で野営しています。それなのに、私だけが家に帰り、飲み食いして、妻と寝ることができましょうか。あなたの前に、あなたのたましいの前に誓います。私は決してそのようなことをいたしません。」

11:12 ダビデはウリヤに言った。「では、きょうもここにとどまるがよい。あすになったらあなたを送り出そう。」それでウリヤはその日と翌日エルサレムにとどまることになった。11:13 ダビデは彼を招いて、自分の前で食べたり飲んだりさせ、彼を酔わせた。夕方、ウリヤは出て行って、自分の主君の家来たちといっしょに自分の寝床で寝た。そして自分の家には行かなかった。

 

11:14 朝になって、ダビデはヨアブに手紙を書き、ウリヤに持たせた。11:15 その手紙にはこう書かれてあった。「ウリヤを激戦の真正面に出し、彼を残してあなたがたは退き、彼が打たれて死ぬようにせよ。」

 

11:16 ヨアブは町を見張っていたので、その町の力ある者たちがいると知っていた場所に、ウリヤを配置した。11:17 その町の者が出て来てヨアブと戦ったとき、民のうちダビデの家来たちが倒れ、ヘテ人ウリヤも戦死した。11:18 そこでヨアブは、使いを送って戦いの一部始終をダビデに報告するとき、11:19 使者に命じて言った。「戦いの一部始終を王に報告し終わったとき、11:20 もし王が怒りを発して、おまえに『なぜ、あなたがたはそんなに町に近づいて戦ったのか。城壁の上から彼らが射かけてくるのを知らなかったのか。11:21 エルベシェテの子アビメレクを打ち殺したのはだれであったか。ひとりの女が城壁の上からひき臼の上石を投げつけて、テベツで彼を殺したのではなかったか。なぜ、そんなに城壁に近づいたのか。』と言われたら、『あなたの家来、ヘテ人ウリヤも死にました。』と言いなさい。」

 

11:22 こうして使者は出かけ、ダビデのところに来て、ヨアブの伝言をすべて伝えた。11:23 使者はダビデに言った。「敵は私たちより優勢で、私たちに向かって野に出て来ましたが、私たちは門の入口まで彼らを攻めて行きました。11:24 すると城壁の上から射手たちが、あなたの家来たちに矢を射かけ、王の家来たちが死に、あなたの家来、ヘテ人ウリヤも死にました。」

 

11:25 ダビデは使者に言った。「あなたはヨアブにこう言わなければならない。『このことで心配するな。剣はこちらの者も、あちらの者も滅ぼすものだ。あなたは町をいっそう激しく攻撃して、それを全滅せよ。』あなたは、彼を力づけなさい。」

 

11:26 ウリヤの妻は、夫ウリヤが死んだことを聞いて、夫のためにいたみ悲しんだ。11:27 喪が明けると、ダビデは人をやり、彼女を自分の家に迎え入れた。彼女は彼の妻となり、男の子を生んだ。しかし、ダビデの行なったことは主のみこころをそこなった。

 

12:1 主がナタンをダビデのところに遣わされたので、彼はダビデのところに来て言った。「ある町にふたりの人がいました。ひとりは富んでいる人、ひとりは貧しい人でした。12:2 富んでいる人には、非常に多くの羊と牛の群れがいますが、12:3 貧しい人は、自分で買って来て育てた一頭の小さな雌の子羊のほかは、何も持っていませんでした。子羊は彼とその子どもたちといっしょに暮らし、彼と同じ食物を食べ、同じ杯から飲み、彼のふところでやすみ、まるで彼の娘のようでした。12:4 あるとき、富んでいる人のところにひとりの旅人が来ました。彼は自分のところに来た旅人のために自分の羊や牛の群れから取って調理するのを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を取り上げて、自分のところに来た人のために調理しました。」

 12:5 すると、ダビデは、その男に対して激しい怒りを燃やし、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ。12:6 その男は、あわれみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして償わなければならない。」

12:7 ナタンはダビデに言った。「あなたがその男です。イスラエルの神、主はこう仰せられる。『わたしはあなたに油をそそいで、イスラエルの王とし、サウルの手からあなたを救い出した。12:8 さらに、あなたの主人の家を与え、あなたの主人の妻たちをあなたのふところに渡し、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。

 

12:9 それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行なったのか。あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、その妻を自分の妻にした。あなたが彼をアモン人の剣で切り殺したのだ。12:10 今や剣は、いつまでもあなたの家から離れない。あなたがわたしをさげすみ、ヘテ人ウリヤの妻を取り、自分の妻にしたからである。12:11 主はこう仰せられる。『聞け。わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で取り上げ、あなたの友に与えよう。その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。12:12 あなたは隠れて、それをしたが、わたしはイスラエル全部の前で、太陽の前で、このことを行なおう。

 

12:13 ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。12:14 しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」12:15 こうしてナタンは自分の家へ戻った。主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を打たれたので、その子は病気になった。12:16 ダビデはその子のために神に願い求め、断食をして、引きこもり、一晩中、地に伏していた。12:17 彼の家の長老たちは彼のそばに立って、彼を地から起こそうとしたが、ダビデは起きようともせず、彼らといっしょに食事を取ろうともしなかった。12:18 七日目に子どもは死んだが、ダビデの家来たちは、その子が死んだことをダビデに告げるのを恐れた。「王はあの子が生きている時、われわれが話しても、言うことを聞かなかった。どうしてあの子が死んだことを王に言えようか。王は何か悪い事をされるかもしれない。」と彼らが思ったからである。

 

12:19 しかしダビデは、家来たちがひそひそ話し合っているのを見て、子どもが死んだことを悟った。それでダビデは家来たちに言った。「子どもは死んだのか。」彼らは言った。「なくなられました。」12:20 するとダビデは地から起き上がり、からだを洗って身に油を塗り、着物を着替えて、主の宮にはいり、礼拝をしてから、自分の家へ帰った。そして食事の用意をさせて、食事をとった。12:21 すると家来たちが彼に言った。「あなたのなさったこのことは、いったいどういうことですか。お子さまが生きておられる時は断食をして泣かれたのに、お子さまがなくなられると、起き上がり、食事をなさるとは。」12:22 ダビデは言った。「子どもがまだ生きている時に私が断食をして泣いたのは、もしかすると、主が私をあわれみ、子どもが生きるかもしれない、と思ったからだ。12:23 しかし今、子どもは死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか。あの子をもう一度、呼び戻せるであろうか。私はあの子のところに行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない。」

 

12:24 ダビデは妻バテ・シェバを慰め、彼女のところにはいり、彼女と寝た。彼女が男の子を産んだとき、彼はその名をソロモンと名づけた。主はその子を愛された。

 

http://www.logos-ministries.org/old_b/2sam11-12.html

 

 

 

「恰好や背の高さに目をむけるな。「人は見によって判断するが、主は心を見るのだ。」(下16・7)

 

 

 

見かけだけで人を判断してはいけないなんて、誰でも分かっている事だと思う。だけど、私は外見で人を判断してしまうことがよくある。('95年)

 

 

 

 

ダビデは、勇気ある紅顔の美少年で、琴を上手に弾く若者であった。伝承によると、彼は、「イスラエルの麗しい詩人」(下 231)で、大  部分の詩篇を作った。また、神に感謝の気持ちで、人の批評を恐れず司祭の制服を着たままで熱狂的に祭壇の前で踊った。(下 612-23

 

 

 

しかしながら、ふさわしい王になるには、外見の美しさや詩の才能は問題ではない。むしろダビデは羊を世話する羊飼いであったことが大切である(上 16191734-35)。聖書には、人々を導くために、この資格が助けになり(詩編7870)、イスラエルの指導者達が牧者のような者であると記されている(イザヤ40114428、詩編80)。

 

 

「ダビデは彼女と床を共にした」(下11・4)

 

きっと妻の心の中でも『王がこわいから、王の言うことに従わなければならない。でも夫を愛している。どうしよう。』という気持ちがあったと思います。本当にしかたがないことだと思うけど、自分を愛してくれた人を捨て、愛してくれた人を殺した人のもとへ行ってしまった彼女を私はキライです。(2-A

 

今の時代にもこういう事はあります。例えば、「お金が欲しかったから人を殺した。」とか。私達も実はダビデみたいな事をするみにくい部分があります。どうしても欲しい物があった時、冷静さを失って、その事しか考えられなくなる事があります。(2-D

 

 

 

 

 「家に帰って足を洗うがよい」(下11・8)

 

私も、同じことがあるかもしれません。例えば何かをこわしてしまった。それを人のせいにたり、すごく小さなことかもしれない。だけどその行動もダビデのしたこと、あまり変わらない。自分の罪を人のせいにして、自分は、何もなかったかのようにしている。(2-D

 

 

 

「ウリヤは家に帰られなかった」(下11・9

私は、ウリヤがとった行動がすごく不思議だけど、

えらい人だと思った。私が同じ立場だったら、贈り

物に目がくらみ、自分のことしか見えなくなっていたと思う。(2-D

 

 ウリヤは男の中の男という感じがしました。上の

立場にいるダビデはウリヤという男をすばらしいと思わなかったのだろうか。('97年)

 

 

 

「ウリヤを戦死させよ」(下11・15)

 

地位や富は時に人間を醜い亡者に変え、周りの人を不幸にします。ダビデはどんな

事でも思い通りになるので、ついいい気になり、「目に見えない唯1人の神」を忘れ

て悪い行いに走ってしまいました。(2-D

 

 このような考え方は現代人にも通じる部分があると思います。例えば、最近よく問題になる少年犯罪があげられます。数カ月前拳銃欲しさに警察官をおそった事件がありました。少年は「警察官を殺してでも拳銃を手に入れたかった。」と言っていたそうです。「人を不幸にして自分は幸せにはなれない」という事は私の結論です(2-B

 

 もし隠すとすれば、その罪を隠し通すために、ますます罪を犯さなければならない。

そして、隠せば隠すほど、隠しているという罪悪感が強くなると思う。(2-D

 

身近な所にもダビデに似た行動を起こしたことがあると思います。例えば、ごみのこととか。周りにはごみ箱がないので、だれも見てないし、持って帰るとめんどうだから...。と、楽をしたいという欲望の力に負けてしまうということが結構あると思います。(2-A

 

 

 

 

「すると、ナタンは言った。『あなたはその男です。』」(下127

 

もしナタンが素直に「ダビデのした事はおかしい。反省せよ。」と言ってもダビデは反省しなかっただろう。たとえ話をすることでやっと気づかせる事ができる。(2-C

 

人は、自分の事でなく、他人のことになると、冷静になり客観的に物事を見て、考えることができるようになると思います。だから、ダビデがナタンの話を聞いている時は、何が悪くて、してはいけないことなのかを考えられたのだと思います。(2-D                                                                      

 

ナタンによるたとえ話がないと、自分の行為が無慈悲なものだと気づかなかったというのは、私の感覚からすると、考えられない事です。しかし、私も、毎日の日常の中で、これほど極端でなくとも同じような事をしているかもしれないと思います。結局の所、私達は自分達の行動を完全に客観的に見る事はできないからです。('97)

 


 

たとえの優れた点

 

 

 

ナタンはダビデの怒りを恐れたので、最初から彼の罪をはっきり指摘しなかったかもしれない。たとえを聞いた人はまずその話の主人公の行動を客観的に判断する。そして、その人物が自分自身だと気付き反省できる。  たとえ話は人を真実に導く強い道具である。イエスもこの伝統的な方法を盛んに自分の反対者のために使った。

 

 

 

「わたしは主に罪を犯しました。」(下12・13)のだと思います。(2-A

 

この文章は“万一、間違ってあやまちを犯してしまったとしても、本当に心から反省し、悔い改めようとする気持ちを持てば、神は私たちの罪をゆるしてくださる。” ということを伝えたかったのだと思います。(2-A

 

「生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ」(下 1214)

 

子供のことまで主は殺そうとする、それも悪いことなんじゃないかと思いました。(2-C)

自分の罪はその人自身にすべて償わせるべきだと思います。(2-C

 

無邪気な子供が父の罪のために犠牲になることは、不公平であり、神もお望みにならないことである。初代のユダヤ人(B.C9世紀)は責任の問題について素朴な考えをもって        いたが、B.C6世紀のエゼキエルの預言書1820には、次のことが書いてある 。

 

 

 

 「子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。

正しい人の正しさはその人だけのものであり、

悪人の悪もその人だけのものである。」

 

   「ダビデは食事をした」下12・19-23)

 

私がダビデのしたことにびっくりしたのは、ダビデの子が死んでから今まで断食していたのと反対に、起き上がって食事をしているということです。このダビデの行動は、何があっても前向きに生きようとしているのだと思います。(2-D)

 


 

ダビデは悔い改める( 詩編51

 

 

 

51:1 神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。51:2 どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。51:3 まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。51:4 私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。51:5 ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。51:6 ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。51:7 ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。51:8 私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、喜ぶことでしょう。51:9 御顔を私の罪から隠し、私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。

51:10 神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。51:11 私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。51:12 あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。

51:13 私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。

51:14 神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。そうすれば、私の舌は、あなたの義を、高らかに歌うでしょう。

51:15 主よ。私のくちびるを開いてください。そうすれば、私の口は、あなたの誉れを告げるでしょう。

 

 

 

51:16 たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。51:17 神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません

51:18 どうか、ご恩寵により、シオンにいつくしみを施し、エルサレムの城壁を築いてください。51:19 そのとき、あなたは、全焼のいけにえと全焼のささげ物との、義のいけにえを喜ばれるでしょう。そのとき、彼らは、雄の子牛をあなたの祭壇にささげましょう。

 

http://www.logos-ministries.org/old_b/psa51-55.html

 

  神に背いた事を知り、私の罪は常に私の前にある 』(513)

 

最近になって、神の「愛」とは、罪を犯した自分を神様は認めてくれることではないかと気付きはじめて、私の心の「善人であらねばならない」というあせりが消えて                             いくのを感じました。今思えば、私が感じていた空しさは「善人でなければ愛されない」と                                  

 

思い込んで、自分自身を偽ってまでも、人に好かれようとしていた自分に対する空しさだったと思います。('95年)

 

『私の罪 』(513)

 

確かに見えないところへ“私の罪”を押し込んでカギをかけてしまえば、なんとなく安心できるけれど、結局はその罪におびやかされながら生きている自分はとても悲

しいものだなと感じました。('96年)

罪から逃れるということは、またそこで罪を犯すということになる。罪と向かい合うことで神に許される。('95年)

 

「私はあなたの御目に悪い事をしました 。」(516)

 

直接的に神様に罪を犯すわけでないのだが、人間を創造して下さり、見守って下さ

る神様なのだから何となく分かる気もする。(’97年)

私は今まで、友達に何か悪いことをしてしまった時、私が心から反省し、あやまった相手は

友達ただ1人でした。今日、ここで、ダビデの賛美歌を読むまでは...

本当は、罪を犯してしまった時、その相手の他にも、あやまって罪をつぐなわなければならない人がいました。それは、いつも私達を温かい心で見守って下さっている神様です。                                                            

自分が今ここにいることや、元気に毎日を送っていることや、友達や家族がいて、幸せであるということも全部神様のおかげなのに、それを知らず、それを当たり前であると思い、たくさん幸せがあるのにもかかわらず、まだ不満、不平を言っていたと思うと、自分がなんておろかで、なさけない者だったか、ガツンと思い知らせました。('95年)

 

 

 

 『私を洗って下さい、雪よりも白くなるように 』(519)

 

どんなにその“罪"が重くても、神は許されないということはないのです。けれど、そのためには、自分の罪を認め、心を裸にすることが大切なのだと思います。('96年)

 

 

 

「神の求めるいけにえは砕かれた心(5119)

 

私たちはお参りに行く時は必ず何かを献げ物として持って行き、絶対に食べる事が出来ないと知っていて、地蔵の前や、仏壇の前に置いておく。それは一体何を意味をするのか?('97年)

 

 

 

結論

この物語はダビデ王の優れた面だけではなく、醜いところも堂々  と教えている。彼は確かにすばらしい成績を残し、すぐれた王だった。が、同時に重い罪を犯す王でもあった。聖書は人間の弱さを隠さずにすべての面を記している。

 

神は不完全な者を通しても、ご自分の計画を実現される。