イエスの時代に於ける
民衆の苦悩
紀元前63年に、首都エルサレムがローマの軍隊に占領されたので、イスラエルはローマ帝国の領土になりローマ人にパレスチナと呼ばれた。
ローマ政権はユダヤ教の衆議会に経済と法の面における権利を認めたが、その自治権を監督した。議会の委員は、71人のサドカイ派の祭司長、長老と律法学者から成り立っていた。
サドカイ派の人(マタイ3・7)
サドカイ派の人は宗教と政治の最高指導者として勢力をもっていた。彼らは、ファリサイ派の人の主張する律法の細則や死者の復活(マタイ22・23)を認めなかった。また、ローマ人たちと友好的で、親しく交際していた。
国をローマの支配から解放する者への期待
ローマ政権はユダヤ人がローマ皇帝を神として崇拝することを命令し、また、彼らから税を取り立て、住民登録を行い、イスラエル国のすべての資源を計り始めようとした。
しかし、ユダヤ人にとって、イスラエルは神が支配する国で、その資源はすべて神のものとして見ていたから、ローマの支配を認めるのは、神を裏切るに等しい事であった。そのため、ユダヤ人は激しい反ローマ政権の運動を起こした。
メシア
ヘブライ語の“メシア”は“油を注がれた者”という意味の語である(用語解説(41)(前半)も参照)。
これをギリシア語で “χριστος "(キリストス)と言う。
イスラエル人にとって、体の中に深く浸透する油は、人間に力を与えるものである。
そのため、イスラエルの王は頭に油を注がれることによって、神の力を受けて神の代理者になった。(サムエル記上 16・1,5b-13、 p.453、イザヤ 44・28-45・3、p.1135)
イスラエルの王たちが“メシア"とされた。エルサレム陥落の後(B.C.587年)、ユダヤ人たちは様々な国々に統治され、自分の王も失ったが、いつかふさわしい王が来るの願っていた(サムエル下7・12-14)。
イエスの時代にこの期待は頂点に達した。(ヨハネ4・25、p.170,12・12-13,p.192)。
一般の人は、待っていたメシアをイスラエルの敵を滅ぼす強い王のように見ていた。
しかし、預言者イザヤはメシアを“神の僕”として、つまり、自分の命を捧げることによって人々を救う者として紹介した(イザヤ61・1、p.1162)。イエスはローマ人を攻撃する指導者にならず、むしろ皆に仕える“神の僕”の運命を受け入れたので、当時のユダヤ人達は戸惑った(用語解説(41)(後半)。
紀元30年4月7日 ローマ人の総督ピラトはイエスを暴動の扇動者と間違えて処刑した。
紀元66年 ガリラヤのユダという人は、宗教的な理由で国を支配していたローマ人に対して反乱を起こし、ローマ軍は2,000人のユダの味方を十字架に付けたが(使徒 5・37)、ユダは国民の支えを得て、4年間政権を握ることができた。
ユダヤ人はその死と拷問を恐れない反抗者を熱心党の者と呼んだ(マタイ10・4)。
その党の者は、先祖の宗教的伝統を守る信念に基づき、ローマ帝国による異邦人支配を拒み、メシアの支配を実現するために武力を行使する事をよしとしたユダヤ人であった。
70年に エルサレムは陥落し、ユダの味方はローマ軍によってほぼ全員が虐殺された。
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