レッブ神父にならって

ドイツ軍がベルギーに侵入したとき、私はその首都ブルュッセルで生まれた。父がまもなく捕虜になり、ひとりで店を守った母は盗難からひどい目にあったりしたが、私はこの母から母乳と共にイエス様にすべて任せることを吸収した。

 

 第二次世界大戦の思い出は少ないとはいっても、家族が毎晩地下室に避難した記憶が残っている。寝る前に、揺れるろうそくの炎が人の顔を照らし影を石灰の壁に描いていたとき、母と一緒にオランダ語で、「優しいイエス様、また眠ります。夜になり、私は疲れました。しかし優しいイエス様よ、まずあなたの子を祝福してください。お願いします」と唱えている場面を今も覚えている。

 

 母は十人の兄弟姉妹の末っ子で二十歳年上の姉に育てられた。中学校に入ってから私はよく母の実家の伯母の所で夏休みを過ごした。小さな集落の農家のマリア伯母は、日が暮れると「朗読しよう」と言った。それは、本を読むのではなく、暗記していたロザリオなどの祈りを唱えるのである。叔父は猫をなでながら、そして私もプリンを食べながら、その祈りに参加した。

 

 一週間の仕事が終わって、村の人々は日曜日用の着物を着て教会に行き、馬や土地にも“主の日”の休みを与えていた。彼らの信仰は日々の生活と季節の流れの中に溶け込んでいた。

 

 ブルッュセルには、「聖マリア学院」というエリートの学校がある。両親は小さな店を営んでいたが、入学が許されて私はそこで高等部を卒業するまで勉強を続けた。

 

小学部のときは病気がちだったが、順調に中学部まで進んだ。そのとき、古典と現代文のコースの中から一つを選択しなければならなかった。古典はその当時大学に入るのに必要科目だったので、私はこれを選んだ。

 

中学校一年の時期に、洗礼を受けている者は堅信の秘跡を受け、聖霊の恩恵をいただき信仰のあかしを立てる約束をする。私はその時この国ではキリストの教えに接する機会がいくらでもあるから、まだキリストを知らない人がたくさんいる国へ宣教に行こうと決心した。私は司祭になることを、そのころひそかに考えていた。

 

これはけっこう無謀な決心であった。私の勉強は思い通りにいかず、その上、体が小さかったので自分に対する自身がなかった。クラスの担当の司祭から、「あなたみたいな肉屋の息子が卒業できると思っているのか」と言われ、同級生からも仲間はずれにされていた。そんなわけでその優秀な学院での楽しい思い出は少ない。

 

十四歳になったころ、一人のシスターが私に、パプアニューギニアで活動している宣教師の雑誌や本を貸してくれた。ボーイスカウトの経験を持っていた私は宣教師としてそこに住んでいる人々を手伝うことができるだろうと考えた。

 

高校二年生のときだったと思うが、その学院で先生をしていた司祭が私にレッブ神父(一八七七~一九四〇)の生涯について語った。その宣教師は中国に派遣されていた。当時、ヨーロッパ諸国はそこに租界を持っていて、中国人を辱めていた。宣教師も中国人を信頼せず、ヨーロッパの風習を着せたキリスト教をそのまま伝えようとしていた。ヨーロッパの宣教師たちのこのような態度にレッブ神父は心を痛めた。彼は決定的な解決策を考えた。それは中国人の司教を任命し、彼らに教会を任せることであった。

 

中国人の愛国心を認めたレッブ神父は、自分の特権を失いたくない外国人当局や教会の責任者の反発を招き、北中国で活動していた彼はまず南に、そしてついにヨーロッパに追放された。

 

しかし、バチカンは彼の考え方を受け入れ、一九二六年にレッブ神父が推薦した六人の中国人の司祭をローマで司教に叙階した。

 

その後、数十人のヨーロッパの若い司祭たちがレッブ神父を手本にして直接に地元の司教の下で中国、そしてその国が共産党になった後はアジアやアフリカの様々な国で宣教活動に励んでいたという。

 

このような道を紹介され、私には確かに魅力的だったが心配もあった。この道をたどりたいと初めて父に打ち明けた日、以前から「私の辛い仕事を除いて、自分の将来は自由に決めなさい」と言っていた父はこれを聞いて暫く爆笑した。牛蛙は自分を精一杯膨らませても牛になれないように、体が弱く、勉強が困難で、気が小さい私が宣教師になるのはこっけいだと思ったのだろう。

 

父は高等学校に入るチャンスがなかたったが、自分の四人の子どもたちが、せめて高校まで行かれるように、朝早くから夜遅くまで日曜日も休まず重労働を続けた。私が高校時代の辛さを耐え、聖マリア学院を卒業できたのは父の苦労を見ていたからだと思う。

 

大学の哲学部に入っても確かに勉強は辛かったが、私は哲学には多大な感心を持った。一方、人間性豊かな司祭に巡り合い、彼にそのまま受け入れられ、自分の長所にも目覚めた。その六十代の司祭は私に、恥ずかしさは一種の傲慢だと教えてくれた。これは最初は信じがたい意見に思えたが、よく考えてみると、我を守ろうと必死になっているからこそ劣等感を起こしてしまうということがわかった。

 

彼の影響で私は次第に自分も周りの人々もそのまま温かく受け入れられるようになった。

 

一年生のとき、もう一つの決定的な出会いがあった。同級生の一人が夏休みの間、体の不自由な人たちと十日間のキャンプをする予定だったが、都合が悪くなり、私が彼の代わりに参加するよう頼まれ簡単に引き受けた。その後も、私は五回くらい参加させてもらった。その活動は私を変えた。手伝いにきた十五人の若者を含めて参加者はおよそ七十人であった。貸し切りリゾートホテルは海辺沿いにあって、そこから船に乗ったり、ボーリング場や近くの観光地に出掛けたりして、手伝う人も手伝ってもらう人も大変疲れたが皆は熱心に燃えていて、私も人のために何かできると分かるようになった。

 

車椅子に乗っている団長は食堂の壁に「ひとりで行動できるように手を貸して」と言う文章を書いてもらった。私たちはときとして手伝うことによって相手を無力にさせ、無意識に自分を高めようとしている場合がある。相手がいくらハンディを持っていても、自分の能力を人々のために生かすように手伝うことは今日も私のねらいである。

 

この活動の体験を生かして、私は二十五歳のときに一軒の別荘を借りた。十人の体の不自由な人たちと、『能力に応じて手伝い、必要に応じて手伝ってもらう』というモットーで私たちは二週間、そこで家庭的な生活を送った。

 

 

 

当時、私は日本に来ることを特別に考えてはいなかったが、ある東アジアの国の文化に完全に溶け込むという夢を持っていた。そして新潟のカトリック教区がレッブ神父のグループの司祭を望んでいたため、ここに派遣された。

 

東京で二年間日本語を学んでから、いよいよ新潟の生活が始まった。昭和四十四年の秋であった。

 

初級日本語しか分らなかったので、しばらくの間中学校に通って社会科と国語のクラスに出席した。来日当初から、施設で暮らしている障害児をよく訪問した。

 

ある日ある人に「子どもと楽しく遊ぶよりも、在宅の障害者を訪問することはずっと有意義ですよ」と言われ、その通りにした。

 

驚いたことに大勢の重度障害者は、自分たちを外へ連れ出してくれる人を見つけられないばかりか、普通の義務教育を受ける機会にさえ巡り合わなかったので世間を知らず、味気ない生活を過ごしていた。それで、私は彼らの友だちになって一緒に映画館やコンサートに出かけたり、できるだけ大勢の人に紹介したり、私が勉強したかった社会福祉の本を読める人に説明してもらったりした。

 

しかし私は、彼らが家族と一緒に暮らす限り、彼ら自身の能力を伸ばすことは難しいと考え、昭和五十四年三人の障害者と学生そして会社員の三人と共同生活を始めた。

 

同じころ、大切な出会いがあった。私は数年前から、坐禅についての話を聞いていて魅力を感じ、たまに道場へ坐りに行っていた。ある日、友人の僧侶から「この道を進むには、いい指導者が必要ですよ」と言われた。私はすぐに納得できなかったが、数年後、ある夏の朝、彼と二人で青森県の禅寺に出かけ、函館龍宝寺の木村清満老師に出会った。

 

修業は厳しく、老師の法話は私にとって馬の耳に念仏だったが、彼は心を込めて話をしていたので、彼の姿そのものが私にとって言葉であった。その情熱に魅せられて私は彼に従うことを決心した。

 

レッブ神父は宣教に出かける弟子たちに心の遺産として「全・真・常」という三つの字を残した。「全」というのは、「イエスのように生きよう」と思ったらまず、何も固守せず、自分を完全に捨てることである。道元禅師はこれを「心身脱落」と呼んだと思う。彼は、「この第一歩を体で覚えていたら、人々に真実の愛を示し、どんなに辛いことがあっても常に喜ぶことができる」と教えてくれた。禅は私に第一の条件にこたえるように道を示していると思う。

 

二十七年前イエスの呼びかけに応じて司祭になったが、今私は、清心女子高校で宗教の授業を担当している。

 

障害者との共同生活は終わったが、以前この生活に参加した一人が「カサ・ドン・キホーテ」という八世帯用の建物を建て、そこで身体障害者と健常者がそれぞれのアパートを持って自立した生活を送っている。私もそのなかの一人として暮らしている。

 

私たちの家に住んでいる障害者の子供たちのほほえみも、神の顔ではないだろうか。

 

神は毎日、いつでもいろいろな人や出来事を通して私を招いていると思う。私はこの呼びかけにいつも気づきたいと願っている。

 

 

 

(なぜこの道を?17人の司祭の手記、女子パウロ会、1994年、8999頁)