出会いが人生を変える――禅との出会い

  私はベルギー出身です。学生時代、友人が身体障害者のボランティアをやっていて、ある時、彼が急に参加できなくなり、急遽、代わりに参加しました。

 それが、私と障害者との出逢いでした。私は障害者からさまざまなことを教えられました。私の人生は障害者抜きには語れません。新潟では障害者と共同生活を現在も続いています。

 来日は昭和42年です。私自身が日本への赴任を希望したわけではなく、イエズス会から派遣された結果です。

 最初は東京にある聖ヨセフ日本語学校で日本語を学びました。

 新潟に住む予定は特にありませんでした。たまたま新潟教区長が秘書を募集していたため、昭和44年に新潟へ移りました。

 私が初めて禅に触れたのは44年です。上智大学で日本文化に関する外国人向けの講演会があり、ドイツ人から日本国籍に帰化したイエズス会神父・愛宮真備(えのみや・まきび/フーゴ・ラッサール)師の禅についての講演を聴き、深い感動を得ました。坐禅によって「私」をなくすことは、神との深い対話になると知ったからです(しかし後に、それは対話であり同時に祈りであることを体験します)。

 私に、この運命的な出会いをもたらしてくれた愛宮真備神父とはどういう人だったのか、ご紹介したいと思います。

 愛宮師は明治31年のドイツ帝国生まれ。昭和4年に日本へ派遣されて上智大学でドイツ語を教えるかたわら、社会福祉に関わっていました。イエズス会日本管区長になると広島へ赴任し、そこで被爆しています。

 23年に帰化。世界平和記念聖堂(広島市)の建設を主導しました。

 愛宮師が禅に触れたのは昭和18年、島根県津和野の永明寺(ようめいじ/曹洞宗)での参禅が最初で、その後長らく福井県小浜の発心寺(ほっしんじ)で、原田祖岳老師の下で参禅しました。原田老師は曹洞禅の僧侶でありながら臨済禅で使用する「公案」(言葉による禅問答)を取りいれた坐禅をしていました。曹洞禅は「只管打坐」(しかんたざ)と言って、ただひたすら坐る禅道です。坐ることになりきる坐禅です。ですから、公案は用いません。ただ、現在でも全国の曹洞宗のいくつかの禅道場では、公案を使っています(愛宮師は、公案は使いませんでした)

 愛宮師は広島で「神瞑窟」という禅道場を開き、カトリックの聖職者にも参禅を奨め、指導しました。今では、世界中のカトリックの中に参禅者はいますが、最初に実行したのが愛宮師です。カトリック信者がプロテスタントの教会に入ることさえ許されていなかった時代だったので、師の大胆な行動は批判や抵抗の的になりました。ただ、愛宮師はなんといってもイエズス会の日本管区長ですから。日本にいる限りは、誰も彼に意見できなかったんですね(笑)。

 師は禅によく似ている伝統がキリスト教にあるということを主張しました。

 

 

 ある日、私は彼の神瞑窟がダム工事で消滅し、東京の郊外に「秋川神瞑窟」を建設したということを聞きました。そこで、生まれて初めての接心会(泊り込みの厳しい坐禅会)に参加しました。たしか昭和46年のことでした。

「キリスト教には禅に似た思想と実践がある」という愛宮師の説明のお陰で、私は仏教の師匠の下ですんなりと禅の道を歩み、その指導を自然に受け入れることができました。

 ただし、私には坐禅の経験はなく、接心会での肉体的な苦痛は想像できないほど、相当なものでした。足と背中がとても痛かった。接心の1週間が過ぎて、確かに得られたのは忍耐力でした(笑)。

 ただ、禅に対する興味が芽生えた時に、この道がその後の私の人生を深く左右するとは夢にも想像できませんでした。キリスト教の教育を受け、来日する前に日本人の気持ちが分かるようにと仏教の基本的な教えを勉強したこともありましたが、坐禅によって掛け替えのないものを得られるとは思ってもいなかったのです。

 秋川神瞑窟では再び接心に参加しました。自宅でも坐禅を続けました。そうしているうちに、「新潟に住んでいるのに、接心のために関東へ出て行く必要はないのではないか」と思いました。そこで、新潟県の曹洞宗寺院で、3回目の接心会に参加しました。昭和49年のことでした。

 12月初旬で、広々とした新潟の田園を雪が白一色に染めていました。私は、「接心は3回目だ。坐禅の姿勢に少しは慣れたから、多少は前よりは楽だろう」と確信していました。しかし、その結果は、朝から晩まで、寒さのなかでずっと震えていました。

 その接心で一緒に修行した友人がある時、「もし良ければ、私の師事している老師を紹介しましょうか」と言いました。正直、私は曹洞宗の老師について本格的に坐禅修行をする必要を、その時はそれほど感じてはいませんでした。しかし、その友人は何度も熱心に誘いました。それで3年後の昭和53年、曹洞宗認可僧堂である興雲寺(青森県上北郡おいらせ町)のおいらせ接心会にて、木村清満老師のもとで接心に参加しました。その後10回以上、おいらせ接心会に参加できたので、誘ってくれた友人には感謝しています。人生は、人との出会いで変わるのです。

 昭和54年、新潟市内で身障者と健常者との共同生活を始めました。62年には共同生活の場を「カサ・ドン・キホーテ」(ドン・キホーテの家/新潟市西区上新栄町)というアパートに移しまして、そのなかに禅道場を作りました。接心などで外泊する以外は、毎朝、近くの青山カトリック教会(西区青山)で祈祷してから坐ります。現在は好国寺(福島県福島市/曹洞宗)の接心会に参加しています。公案を使い、心身ともに極限に追い込まれる非常に厳しい道場です。

 

キリスト教のなかの禅――「自分を無にする」という相似性

 

 坐禅を続けるうちに、禅の伝統が私のキリスト教をより深めるのに不可欠な存在になっていることに気づきました。そしてまた、キリスト教のなかにも禅宗の考え方に非常に似ているものがあることを実感しました。とくに、イエスの祈りが完全に自分を無にするものであり、それが禅と非常に似ているのです。

 イエスは御自分と御父との関係を弟子たちにも一般のユダヤ人たちにも語り、ヨハネ福音書では、フィリポに「私を見た者は、父を見たのだ。私が父の内におり、父が私の内におられることを、信じないのか。私があなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。私の内におられる父が、その業を行っておられるのである」(14:9~10)と言われました。「私と父とは一つである」(1030)とも言いました。これは二つの事実を示します。つまり、イエスの業が完全に御父に適っていることと、イエスは御父と別の存在ではない、ということです。

 フィリピの信徒への手紙(2:7~8)には、「キリストは自分を無にして、僕の身分になり、へりくだって十字架の死に至るまで従順でした」と記してあります。これはイエスの身分について最も重大な発言であると思います。「自分を無にした」あるは「自分をむなしくした」という言葉はギリシア語の「セアウトン・エケノーセン」の訳で、原型の動詞「ケネオー」は空っぽにするという意味です。イエスはそこまで御自分を捨てることができたので、完全に御父の息吹によって生きられたのです。イエスはすべての名誉上の呼び名を否定して、ただ仕える者になりました。彼は洗礼の時に、自分を諦め、無になり、これから人生がもたらす困難や苦しみを受け止める覚悟をし、慈悲の息吹に導かれた人生を歩み始めたのです。この道は、物質的な放棄だけではなく、自己の放棄でもあったと思います。そして、弟子たちにこの道を奨めたのです。

 禅では「大死一番、絶後に蘇る」という文句があります。聖パウロはこの放棄を一種の死と呼びます。「私たちは洗礼によってキリストとともに葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです」(ロマ6:3~6)。「生きているのは、もはや私ではありません。キリストは私の内に生きておられます」。この完全な無私は、禅の至高の境地ととても良く似ています。

 次に「祈り」について考えてみましょう。

 たとえば4世紀のはじめ、エジプトの砂漠に隠者の集団がいました。彼らは考えを断(た)ち、「純粋な祈り」をしていました。彼らによれば「祈りとは思考の停止であり、言葉による祈りは初心者向き」とされました。ある隠者はこう言ったそうです。「汝祈る時、汝の中に神聖さを抱くなかれ。同時に、汝の知性をしていかなる形態の刻印をも受容せしめるなかれ。汝姿なきものの前で無形となれ。されば汝会得せらん」。

 自分を無にすることで神に出会う。しかし、神聖さの先入観は神から私たちを遠ざける。これは、思考を排除する禅そのものではないでしょうか。

 西ヨーロッパにおいても、12世紀以降に神秘的なキリスト教のグループが現れました。特にライン川流域のエックハルトと弟子のタウラー、フランドル地方のロイスブルクが秀逸でした。

 ロイスブルグは「しばしば内的人間は、彼のすべての行動や徳を超えて、自己に戻ることができる。そこで彼は神と直接に対峙する。そして神の単一性から彼のうちに純粋な光が照り、この光は彼に暗闇やあらわな状態や虚無を示す。その虚無のなかで彼は神に打ち克ち、神とともに一体化する」「我々は、気持ちを良く落ちつけ、目を開いて無に留まる限り瞑想できる。しかし感じていることを糾そうとすると直ちに推理的思考に再び陥る。その時、我々は神と我々との間の相違と距離とを感じる」と述べています。前途の相似性は一目瞭然です。

 イタリアのアシジの聖フランシスコも完全な無私、無所有をめざした一人です。彼は隠者のように天に感謝し、太陽、月、小鳥の恩恵を感じ、自然賛歌を歌いました。良寛は、同じような自然からの恩恵を「焚くほどはかぜがもてくる落ち葉かな」などの俳句で伝えたかったのではないでしょうか。二人は良く似ています。

 いかに用語や視点が違っていても、キリスト教の隠者や神秘思想家と禅の老師たちは、彼らの至高な段階の体験について語る際、同じ事実に基づいているように私には思われます。

 私が禅を実行するのは、自分なりにイエスがなした体験、すなわち彼の教えの源である経験を追体験することなのです。イエスは、自己の放棄を弟子に奨めた、と先ほど述べましたが、私は禅に出会うことによってイエスの要求を理解し得たと思いますし、彼の要求を実践する方法を与えていただいていると考えています。

 

(この談話原稿は、新潟県立がんセンター新潟病院「第18回『いのち』をめぐる連続講演会」でのアンリ神父の講演に、神父の談話を加えたものです

 

 

Henri HUYSEGOMS

昭和15年、ベルギー王国ブリュッセル市生まれ。同国ルーバン大学哲学部を卒業後、イエズス会進学院入学。41年、カトリック司祭叙階。42年、来日。聖ヨセフ日本語学校(東京)入学。46年、愛宮真備師のもとで初めての接心参加。同年、新潟大学人文学部に聴講生として入学。研究生を経て48年、同学部非常勤講師。63年、新潟清心女子高等学校助教諭(倫理・宗教)。平成17年、同校退職。22年、新潟大学退官。現在、新潟教区付司祭。